瞑想における魔境問題
クライアント(瞑想やヨガを指導している)から「瞑想を伝えていく側として気をつけることはありますか?」という質問がありました。
あるブログ記事を読んで思ったそうです。
そのブログのURLはのせませんが(disるとか、つっこむつもりはないので)
その記事の趣旨としては、むやみにヨガや瞑想をしているとチャネリングの危険性があるというもの。
チャネリングの定義が曖昧(あいまい)で、それがどう瞑想やヨガに関係するのかも曖昧だったのですが、ようするに
深い変性意識状態(そのブログ記事ではこれを「チャネリング状態」のように解説してました)のときは洗脳等の、他者からの書き込み(潜在意識や内部表現といった)がされやすい。
また、神秘体験もしやすいので妄想や幻覚を事実と混同して「魔境(まきょう)」に入ってしまうことがある。
この二点にたいする注意喚起のように読めました。
けっこうなボリュームで負の面を(ヨガ、瞑想について)強調、不安をあおるテイストで書かれていたのが気になりましたが、前述の二点はわたしも思うところで同意できます。
その記事でいうチャネリングをここでは「深い変性意識状態」と言い換えてつづけます。
瞑想やヨガに限らず、深い変性意識状態になる行為はチャネリング的な行為だといえると思います。
没入できる(ゾーンやフロー状態も入る)ものならなんでも。
魔境というのは神秘体験を伴います。(イコールではなく)
神秘体験自体は気持ちいい、快感をともなう体験なので、それはそれで楽しむのは個人の自由でしょう。
問題なのはそれ(神秘体験)を自分が見つけた唯一無二、普遍の真理だとして現実と混同することでしょう。
そのように勘違い、妄想(瞑想ではなく)しないことです。
ディズニーランドが楽しめても、ミッキーマウスという現実の生物がいるのだと盲信しないこと。
あれはあくまでも「着ぐるみ」だと。
それを理解したうえで楽しむということです。(熱狂的なディズニーファンは本稿を読んだことを忘れ、今すぐ離脱してください)
魔境問題の注意点は、瞑想(ヨガでも)にもゴール設定をすることです。
ゴールを設定することで必要なフィードバックも決まります。
そうすることで瞑想の方向性(ゴール)と進度を明らかにできます。
このふたつがないと魔境を本物だと勘違いしてしまう危険性があります。
なぜなら、**何にむかって進んでいるのか。
どれくらい進んでいるのかがわからなくなる**からです。
神秘体験がそのままゴールになって、狂信者やカルトの教祖になってしまうかもしれません。(妄想にとりつかれて反社会的な行動にはしったり)
ですから、指導するときには生徒さんなり、クライアントさんの状態をよく観察し、魔境に入らないよう ライ麦畑のキャッチャー になることが必須です。
ちょっと長いですが、わたしが大好きなエンディングの一部を引用します。
でもとにかくさ、
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、
小さな子どもたちがいっぱい集まって
何かのゲームをしているところを、
僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、
他には誰もいない。
つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。
僕のほかにはね。それで僕はそのへんの
クレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、
誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、
かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、
よく前を見ないで崖のほうに
走っていく子どもなんかがいたら、
どっからともなく現れて、その子をさっと「キャッチ」するんだ。そういうのを
朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチー、
僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、
僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこなことはわかっているんだけどね
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』より
魔境に遭う段階はそう深いところで起きるものではありませんが、それでもちょっとやそっとではたどり着くところでもないので、そんなにナーバスにならなくていいかと思います。
ですが、必要十分な経験や知識を持たなくとも、生まれつきというか、素養(センス)がある人もいるので、こういった注意点はおさえておくにこしたことはないでしょう。
容易に自分の世界に没入して深い変性意識状態になる人は少なくありませんから。(この視点をもって人と接するようになると、たくさん見つかります)
わたしも瞑想を本格的に(本質とは別のところで)始めた最初の頃は宇宙が見えたり、大昔の西洋の町並みが入れ代わり立ち代わり現れたり、いろんな人の顔が浮かんだりという体験をしたことがあります。(ホルモン、脳内麻薬の影響に過ぎません)
魔境には入りませんでしたが、不思議な、そのミステリアスなヴィジョン、体験は未熟者にはとても刺激的なものです。
思い違いをして「真理を見つけた」とか「超常的な力が手に入った」となる人もいるかもしれません。
ということで瞑想にもゴールを。
そしてフィードバックをとることで、魔境に迷い込む危険を避けられるようになります。
あとは他者からの書き込みの危険性ですね。
いわゆる洗脳といったもの。
深い変性意識状態では他者から書き込みがされやすい(妄想を信じ込むことによる自分が自分にする書き込みも)というのもあるでしょう。
悪用すると洗脳です。(相手の同意を得ずに洗脳する側の利益のために勝手に書き換える、書き込むことが)
洗脳というと大げさに聞こえてしまうかもしれませんが、たとえば間違った指導をするヨガの指導者に習い、間違ったアーサナ、身体の使い方(心も)を覚えて(信じ込んで)しまう。
これも洗脳(マインドコントロール)です。
他者からの書き込みです。
それによって身体(心も)に不具合がでれば、呪いにもなります。
本人が気づかぬうちに。
ですから、信頼できる「偉大な魔法使い」に師事することも、そういった危険を避けることになると思います。
逆に相手(生徒さんやクライアントさん)のほうが魔法使い側よりも深い変性意識状態に入ると、そちらに飲み込まれてしまうので、指導する側もそういった点は注意する必要があるでしょう。
ここまで瞑想(そしてその指導)をきっかけにすすめてきましたが、洗脳(他者からの書き込み)についていえば、例の感染症騒ぎもそうです。
言葉が、概念が人を支配し、そして殺す。
洗脳というと、あまり日常では扱われない言葉ですが、気づいてしまえばそれを行うのはヒトだけではない(実行という起点はヒトであれ)ことがそこかしこに溢れている。
実体はもたなくとも情報(言葉、概念)は生命をもち、増殖し、実体をもつ存在(我々)を支配する。
書く瞑想〜The Artist's Way(ずっとやりたかったことを、やりなさい。)
夢やゴール、大きな目標といったものがない。
そんな声をよく聞きます。
もっと単純にいうと、やりたいことがない。
わからない。
でも、知りたい。
やりたいことを見つけたい。
そんな声です。
自分が心の底からやりたいと思えるようなことをしたい。
だけどそれがわからない。
見つからないんだという悲鳴です。
ささやき声にすらならない、聞こえない悲鳴です。
でも、実際にはそんな声を発している人も、ちゃんと「やりたい」ことをやっています。
人は本質的にやりたいことしかできない(していない)からです。
NLP(神経言語プログラミング)ではすべての行動には肯定的な意図があるという大切な前提を示しますね。
たとえ周囲から自虐的な、自分を傷つけるようなことをしているように見えていても(本人もそう感じていたとしても)それは本人が望んでしていることです。
少なくとも、捕虜や囚人のような立場で強制されていない限りは。
では、なぜ「やりたいことが見つからない」んでしょうか。
やりたいことを好きなだけやっているはずなのに。
そこには心の表層と深層が食い違っていることがあるのではないでしょうか。
表層はいわゆる意識できる意識。顕在意識といったもの。
深層は意識できない、無意識や潜在意識といったもの。
これらがつながっていなくて、それが悲鳴を生んでいるのではないでしょうか。
そんなとき、書く(描く)瞑想が役に立ちます。
最近この書く瞑想をはじめて1ヶ月ほど経つNさんから近況が送られてきました。
Nさんがしているのはジュリア・キャメロンがすすめる(The Artist's Wayの著者)「モーニングページ」というものです。(最近は「ジャーナリング」なんかもありますが、手書きの効能はよくいわれるところ)
朝起きたら一番にノートに向かい、3ページを文字で埋めます。(文字でなくてもいいです)
文章を書くというのではなく、思いつくままに手を走らせます。
何を書いてもいいです。
書くことがなければ「ない、ない、ない」でもいいし、「うー、うー、でてこない、つらい」でもいいです。
大事なことは表層の意識の検閲をさせないこと。
それをすり抜けることです。
ですから、どんな言葉、考えを書くかではなく、心の奥底(深層)に降りていって、向き合って、探し、引っ張ってくること。
言葉になる前の何かを探す(そのために考える)ことです。
Nさんいわく、最初はとてもつらかった。
3ページ手書きで埋めるのは、それ自体も疲れるし、なによりその意識状態を維持するのがしんどいと。
そもそも、こんなことをして本当に得られるものがあるのか。
変化するのか。
そういうつらさもあったそうです。
それでもなんとか続けていくうちに、取り組む意識も、そして書く(出てくる)内容にも変化がみえてきて、今では「大変だけどやらずにはいられない」状態だそうです。
人には見せないこと(基本、自分でも振り返りをしないこと)がルールなので、文字が判別できない範囲で書いたものを送ってもらいました。
最初のうちはなんとか書いてはいるのもの、文字は大きく、余白もたっぷりです。(埋めるのが大変なため)
それがだんだんと余白が減っていき
最近では文字サイズが小さくなり、なおかつ余白もほとんどないビッチリな状態。
米粒にお経を書くような感覚だとおっしゃってました。
まだ目に見える大きな変化はないけれど、生活習慣が変わってきたとか、心の在り方、感覚が違ってきたとか。
たくさんのフタをされたツボがあって、その上にさらにホコリがたくさんつもっている。
その状態を感じるようになったそうです。
そして、そのホコリを自分の心そのもの、意識だと勘違いしていたのかもしれないと。
まだホコリを払っている段階だけれど、その先の「フタ」そして「ツボの中身」はいったいなんなのか。
続けていくとのこと。
死者と対話する瞑想
瞑想をするといろいろな感覚、体験に遭うかもしれません。
よくいわれるリラックスとか、集中力を養うとか、生産性があがるとか、創造性が高まるとか、うんぬん。
ま、それらはそれらでそうなんでしょう。
最近はいろいろな測定装置(fMRIとか)で科学的な面からエヴィデンス(証拠)もとれて、客観的なデータでその効果、効能が明らかになっているようです。
それはそれとして。
そうした客観的なこれだという効果とはべつに、主観的な価値をそこに見出すのもいいと思うんです。
主観的であっても(客観的な証拠が観測されなくても)その体験は本人にとっては現実なのだから。
そんな感じで今回はわたしのふわっとした主観的な瞑想体験を紹介します。
母が急逝してから6年くらい経ちます。
亡くなる1年前くらいまで、ずっと関係は悪くて。
ほんとにひどい息子で、ひどいときには「早く死ねばいい」くらいに思ってました。
もちろん、そうなるにはそうなる理由、原因があったんですけどね。
そんなひどい息子でしたが、とある修行がきっかけで最後の一年はとてもよい関係になっていました。
相変わらず会いにいくこともなく、月に一度か二度の電話(10分もないくらい)だけでしたが、それでもお互い感謝と労い(ねぎらい)の言葉をかけ、思いやることができた貴重な一年でした。
そんなこともあってか、次兄が亡くなったときのように長いあいだ悪夢に苦しむこともなく「あぁ、すんなり成仏したんんだなぁ」と思ってました。
そして亡くなってから一年ほど過ぎたころ、知人から母に献花するお花をいただきました。(奇しくも母とおなじ名前だったりして)
そのお花を供えた夜、夢をみました。
母がでてきたんですね。
やっぱり女性だからでしょうか。
お花は好きなのかな。
嬉しかったんでしょう。
夢ってあたりまえだけど不思議ですね。
夢にでてきた母はずいぶんと若返っていて、スリムにもなっていて、そしてとても美しかったです。
通常の意識(覚醒状態)であれば、そんなことはすぐに「違う」と気づきますが、そこは夢。(明晰夢は別ですけどね)
幸せなことになんの疑問も感じず、じつに自然にコミュニケーションをとることができました。
でも、母がいる部屋との間にふすま戸があり、それがいくら開けても、何枚あけても次の戸がでてきます。
なんでー!!
とイライラしながら数十枚、その戸を開けて、ようやく母のいる部屋に入ると、母は病床にいました。
いまでも鮮明に思い出せますが、そこで生前はできなかった(というか意図的にしなかった)介抱のまねごとをしました。
介抱といっても乱れた髪をまとめてあげたり、お腹をさすってあげたり。そのていどのことです。
切ない感覚が蘇ってきますが、とても満ち足りた幸せな時間でした。
お盆の時期には夢のなかで、こうした故人との再会をすることがあります。
もちろん、いわゆる「霊」とかではなく、自分の記憶が作り出している幻想、作話なのですが、それでも当人には現実です。
これまで兄や知人、お世話になった方と夢のなかで出会ったことを思い出します。
そして、そのどれもがただ再会したというのではなく、生前にあったわだかまりのようなものを溶かす機会でした。
ただの夢、夢で死者と再会したというものではなく。
ある意味「浄化」のような。
こういった夢は、ふだん見る夢とは違っていてわたしの心をとても穏やかにさすってくれるようなところがあります。
ここから瞑想にひきよせるのは強引かもしれませんが、そこをわたしが決めるのは自由でしょう。
客観にはほど遠い、わたしの主観のなかにしかないものであっても。
たかが夢じゃないかと言われれば、たしかにそうなんだけど
瞑想を日々実践し、その質が変化、深まることでこうした夢にも影響があらわれること。
科学的な面からの分析はそうした人たちに任せて、わたしはこっちのほうから深めて、伝えています。
左脳をだまらせて右脳で描く〜脳の右側で描け
瞑想は目を閉じて、心静かに座ってするもの(だけ)ではありません。
いわゆる瞑想とよばれる行為をしていなくても、一心不乱に打ち込んでいる状態も瞑想(的行為)といえます。
ヨガや筋トレ、楽器演奏やダンスといった芸術、自己表現。
数学や哲学、科学等の研究者がする思考もそうだといえるのじゃないかなと思います。
だから、案外本人はそれとしらずに瞑想をしていることは多いのかもしれませんね。
ひさしぶりに過去の写真を見返していたら「描く」ことが瞑想になっていた経験を思い出しました。
とあるワークショップに参加したときのことですが、言語野(左脳)の活動を抑制して、右脳を前面に引き出して描くというものです。
いろんなワークがありましたが、これはポジとネガを転換して描いたものです。
狙ってやらない限り、ふつう絵を描くといったら対象そのものを描きますね。
花瓶なら花瓶、りんごならりんごそのものを描きますね。(ポジ)
これを反転させると(輪郭から外)「ネガ」になります。
この絵は黒く塗りつぶされたものが物体としての描く対象でしたが、実際に描いたのは(そう意識して)白い余白(ネガ)部分です。
さて、なにを見て描いたのでしょう?
これです。
パイプ椅子をくんぐほぐれつ、積み重ねたものです。
あまり創作意欲がわく「モデル」ではなかったですが、ふだんと違う意識、視点をもって長時間(3〜4時間くらい)取り組んだので頭が、脳が非常に疲れました。
見てのとおり、椅子がこんがらがったようなものなので、描くには相当集中、観察する必要があります。
そう、思い切り、まっすぐ「瞑想」です。 (時間の認識もとぶので、描き終えたら数時間経っていたという)
途中で具合が悪くなって(脳疲労)倒れ込んでしまいましたが。
こちらは左手(利き腕じゃない手)を使って、そして手元は見ずに対象(目)を鏡で見ながら描いたものです。
「1ミリ1秒ルール」というものがあって、左手で描いているところは見ずに、目は鏡を見続けて、そして左手は線を「1ミリ1秒」かけて(そういう意識で)描きます。
ごらんのとおり、写実的に目とわかるようには描けていませんが(見てませんし)そういわれてみれば、、目にみえませんか?
写真のように写実的に描くことがゴールではありません。
これもふだん使わない感覚、意識を表舞台に立たせて、それが瞑想状態になります。(これは数分でもできますね)
最後に、これはなんでしょう?
これも左手で、描いている紙は見ずに対象を見続けながら描いたものです。
答えは、オードリー・ヘップバーンの白黒写真です。(以下の写真とは違いますが)
「描く」ことひとつとっても、ちょっと取り組み方、意識を変えるだけで瞑想になる例でした。
コピーをとって複数枚で構成してみたり、フレームでの切り取り方を工夫したり、着色したりすればちょっとしたアートにもなるかもしれません。
瞑想でガンは消える?〜熟さぬ実は落ちることができない
あまり大きな声では言えないのですが
ある女性に瞑想の指導をしたことがありました。
(女性に瞑想の指導をしたことが大きな声で言えないことではなく、詳細はこの先でわかります)
彼女と会ったのは
二泊三日のリトリートで
その中でだんだんとお互い自己開示をしていく場面があったんですね。
そこで彼女は
自分が末期のガン(乳ガンから肝臓へ)、ステージ4だということを明かしました。
彼女について 問題のない範囲でつづりたいと思います。
リトリートの主催者からのお願いで
わたしが参加者の皆さんに瞑想のガイド(誘導)を何度かしたんです。
彼女は当然といえば当然なのでしょうが
精神的に不安定なところもあり
瞑想については否定はされませんでしたが
かといって大喜びでという状態でもありませんでした。
それが、実際にしてみると(このときはボディスキャンからサマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想を)
短時間ながらも(15分〜30分)心身にいい感触を得ることができたようで、瞑想後のフィードバックでも顔の様子、発言にはればれとしたところがありました。
その後、ご自分でも何度か実践されている様子も。
わたしとしても大変うれしく、貴重な体験をさせてもらったのですが、リトリートが終わり、お別れをした後
Facebookで繋がって(今はもうやってませんが)いただいたメッセージにはもっとうれしいことが書かれていました。
プライバシーに配慮して問題ない一部のみ、紹介します。
この時点で彼女は治療にたいして具体的な行動にうつす決心がついておらず、そういったこともあって心の整理のためにもリトリートに参加されたとか。
それが、そのリトリートや瞑想体験をして帰ったら、なにかが自然とふっきれたそうなんですね。(以下、一部引用)
私は、リトリートから帰って次の日に 手術をすることに決意しました。
昼さがりに太陽の光にぽかぽか 照らされながらお茶を飲んでいたら 決めてました。
なんかね、正心さんに 友達申請してから、ね、私の、 ここからと、ここまでが、 繋がって行ったみたいに感じてるの。
今までの過去と、これからの未来が 見えない糸で、繋がって行くような 感触がしています。
正心さんは、リトリートの間、 ずっと、これからの未来を、 夢を語っていたからかな?って、 わたしは思った。
それで、私も、これからミラクルな 未来が、待っていそうな 気持ちになってます。
ここまでで以上、だった話なのですが、最近共通の知人から彼女のその後を聞く機会がありました。
手術を決心し、そのための検査入院をした際、ガンがきえていたのだそうです。そして、手術はせずに経過観察へ。
一緒にした瞑想が関係あったかどうかは誰にもわかりません。
ですが、リトリートでの体験、瞑想の体験を持ち帰って変容した彼女の心が身体にも何かしら影響を与えたということはあるかもしれません。
医学的、科学的な根拠を示すことはできませんが、同様に効果(関係)がないという証拠もありません。
実際、瞑想がガン患者のストレスを低減したり、免疫機能の改善をもたらしたという報告は少なくないようです。(それらについては興味のある方はご自身でお調べください)
瞑想が彼女のガンにどのような影響を与えたのかは天のみぞ知るということにして
とにかく一期一会(二泊三日ですが)のご縁が、このようなドラマと朗報をもたらしてくれたことに、あらためて「縁起」を感じます。
ここで終わりでもいいのですが、さらにこの後がありまして。
彼女は別のリトリートで偶然同じ病状(進行も)の方と友達になっていたそうですが、その方と電話で話した後、その友達もガンが消えていたそうです。
同調でしょうか。
実際になにが彼女たちの身体に起こったのか、誰にもわかりませんが
あらためて、わたしたちはすべて単一の存在ではなく、途切れることのない関係性、連続性の中に生かされているのだなぁと
無常、無我、縁起
に思いをはせる今日このごろです。
スグフォーム(申し込みフォーム)が素晴らしいという話
最近Web/IT関係であった相談に「申込みの定員と申し込み可能時間の設定がしたい」というのがありました。
ようするに、決めた定員の数に達したらもう申し込めなくなる。また、いついつ何時と指定した日時から申し込みが可能に、システムで対応できないかと。
探せばいくらでもあるとは思いますが(もしくは自作するか)、やはりなるべく安価で導入が簡単なものを求めますよね。
無料ということでいえば、よく知られたものではGoogleフォームがあります。
Googleフォームでは前述の二点はカスタマイズで実現可能ですが、プログラミングにまったく触れたことのないような人だと厳しいでしょう。
あと、機能は網羅していても各種操作のインターフェイス(使い心地、使い勝手)が決してわかりやすいとはいえない(本職の人たちは別にして)し、日常的に使うものであれば、そのへんの煩雑さも出来る限り低いほうがいい。
ということで、途中まではGoogleフォームで作っていたのですが急遽とりやめて、結局国産のフォームを提供している(無料)サービスを選択しました。
このWebサービスはその名のとおり、スグに申し込みやお問い合わせフォームが作れて素晴らしいです。
操作感もサクサクとわかりやすい。
フォームに特化していることもあって、必要な機能はほぼ網羅されているといっていいでしょう。
とくに今回求められている
・定員(申し込み数の上限)を設定できる ・申し込み可能日時を設定できる
この二点はバッチリ満たしていました。(申し込み可能日時は終了日時も指定可能)
たとえば、WordPressなんかでもフォームはプラグインでハードル低く実装できますが、上記の二点を満たしているものってないんですね。需要ありそうなんだけどな。
わたしは以前、主にWordPressのカスタマイズ専門でやっていたので、フォームもプラグインをカスタマイズして利用してましたが、これからはWordPressに固執して完結させず、こうした使える外部サービスと連携させるほうがずっと楽で安心かなと思いました。(メンテやバージョンアップも考慮しなくていいし)
スグフォームは無料で使えますが、申込者の送信内容をCSVでダウンロードしたい場合は有料(それでも月額990円)版に乗り換える必要があります。手動で管理できるレベルであれば無料で十分使えるでしょう。
スグフォームは以下の記事で知りました。他にもいくつか紹介されています。
音声配信コンテンツで人生変わった話
タイトルはちょっと釣りっぽいですが(人生はいいすぎかも)生活は激変しました。
とくに例の感染症騒ぎでいろいろと退屈、疲弊していたなかでとても有意義、おもしろい、そして多くの気づきと学びが得られるものと出会った感じです。
音声配信については「これからは音声だ」なんて声を数年前から聞いてはいましたが、視覚情報優位(NLPでいうところの優位感覚)の私は音声だけだとイメージがたちあがりにくく、入ってきにくいことが多いんですよね。
なので「ふ〜ん、そうなのか」という程度で、なかなか実際にコンテンツを聴くっていうこともしてなかったんです。
それがたまたま「Web3」という概念を知り(NFTが最初のきっかけワードです)、それがチンプンカンプンで理解できなかったところでたまたま目にしたイケハヤさんのKindle本からイケハヤさんの存在を知り(存在だけはなんとなく知ってましたが)、彼がパーソナリティをつとめているVoicyを知り、いっきに音声配信を日常的に愛聴する生活になりました。
NFTをはじめとした、いわゆるWeb3というものの概念、知識、技術等については理解するのも調べるのもハードルは低いものではなく、書籍は多くでているものの(KDP、Kindleのセルフ出版なので内容は玉石混交だったりしますが)理解がなかなかおいつかず、音声による情報はそれを補うのにおおいに役立っています。
きっかけはNFTでしたが、この機会に別ジャンルのものも知ったりして、今では毎朝(ジョギング時に)、毎日トータルで2〜3時間聴きまくってます。
これはたしかに「音声、くる」だなぁと、やっと実感。
Voicyはだれでも発信できるものではないですが(審査があるそうで)、stand.fmはそんなことはないようですね。
どのプラットフォームも聴いてますが、自分が聴きたいものがひとつにまとまっているわけではないので(プラットフォームを横断しないといけない)若干面倒だったりしますが、日々楽しく聴いています。
音声のほうが潜在意識に届きやすいなんて話もききますし。(ほんとかよ、と思いつつ)
ジョギング、散歩、ちょっとした家事的なことをしながら(それほど集中力を必要としない)「ながら聴き」ができるのがまたいいですね。
こうした音声配信のコンテンツを楽しみつつ、痛感するのが「いかにここ数年、外界を遮断してひとりガラパゴス化していたか」ってことです。
情報断捨離のようなことは、それはそれで有益だと思っていますが(なので意識して実践していたところもあり)今回のことでは「ずいぶんと遅れをとっていたな」と、若干後悔というか、焦りつつ「追いつけ〜」って感じで日々追いかけてます。
音声といえばAudibleなどのオーディオブックも気になるところですが(最近、聴き放題にプランが変わったとか)今はこれ以上増やすと生活できなくなるのでまたの機会に。(といいつつ、いまなら2ヶ月無料体験ができるとのことで体験中!2022年5月11までの申込みが対象)
「読む」から「聴く」へのシフトチェンジというか、体験の仕方は変化していっていることも強く実感する今日このごろ。
以下の本はすべて無料で(Kindle Unlimited会員であれば)読めます。