悦びを求めることは悪いこと?
瞑想、メディテーションを
「無になること」
だと言う人がいますが
そうなんでしょうか。
無念無想(むねんむそう)
なんて言葉もあります。
そう感じることがあっても
それは「そう感じただけ」であって
無になることを目指すのが瞑想なんでしょうか。
無になることを求めるのではなく。
答えを見つけること。
答えを探しにいくこと。
答えといっても 「正解」という意味ではなく。
求めるものを探す。
求めるものを見つける。
釈尊(お釈迦様)も
そうしたものを探し続けて見つけた(悟った)のではないでしょうか。
そして、その答えが(求めるものが)
見つかったときの快感を求めてする。
瞑想(仏教では「禅定」=ぜんじょう、
といったりしますね)を
宗教的な、高尚(こうしょう)で
禁欲的なものだと理解している人には
「快感」を求めるなんて受け入れ難いかもしれません。
でも、快感、悦び(よろこび)を求めることは悪いことでしょうか?
釈尊をはじめ
周囲からみると「禁欲的」にみえる
修行のようなことをしている人たちも
まわりがどうみているかは別にして
本人はよろこびを求めて(快楽を、快感を)瞑想をしているのではないでしょうか。
快楽をただセックスなどの肉欲や食欲に求めるのではなく
高い段階(精神性を)で求めることが瞑想なんじゃないかと思います。
そしてそこで(瞑想で)見つけた何かが
自分ひとりの快楽にとどまらず
他者や社会に役立つものであったら
さらに悦び、喜び、歓びになりますね。
小乗(小さい乗り物)が大乗(大きな乗り物)に。