仏陀も修行したアーナパーナ・サティ〜呼吸瞑想
今回は「アーナパーナ」という呼吸を集中の対象としたサマタ瞑想(一点集中型)の一種を紹介します。
これだけ
をしていれば瞑想の実践になる、そのエッセンスのひとつとして、コンパクトにまとまった瞑想法です。
その名も
アーナパーナ・サティといいます。
「サティ」は「気づき」という意味になります。
パーリ語(古代インド語)でアーナは息を吸うことであり、パーナは息を吐くことになります。
呼吸の気づき、それが
アーナパーナ・サティ アーナパーナ瞑想法になります。
ブッダ自身も修行したとされるものです。(いや、エヴィデンスとか言われると困っちゃうけど)
わたしたちは生まれてから死ぬまでつねに呼吸していますね。
ですから、呼吸はだれもが精神集中の対象とできます。
外の世界から自分の内なる世界(感覚の世界)に注意を向けると、自分の呼吸がひときわ目立ってきます。
この呼吸に意識を置きます。
鼻の孔(あな)から入ってくる息、出ていく息。
ここに神経を集中させます。
この瞑想法は呼吸の訓練ではありません。
呼吸に気づく訓練です。
呼吸をコントロールするのではなく自然な呼吸に意識を置きます。
ですから、長く細い呼吸をゆっくりととか吐く息と吸う息の割合とか、そういうことは気にしません。というか、コントロールすることを手放します。
長い呼吸でも短い呼吸でも
また、重い、軽い 荒い、弱い
呼吸かもしれませんが、とにかく雑念をはらい
「気づきの連続性」を断たないようにして
できるだけ長いあいだ、呼吸に意識を集中させていきます。
時間は、まずは15分をめざしてみましょう。 (長くやる場合でも30分もできれば十分です)
思うように瞑想、集中ができなくても大丈夫です。
無気力に襲われたり 居眠りをしてしまっていたり
瞑想の指導法や指導者、自分の集中力の足りなさに疑問をいだき続ける意思が萎えてしまうこともあるかもしれません。
そんなときは
瞑想がむしろうまくいっておりそのためにいろんな困難が生じているのだと理解しましょう。
精神集中が深まると、呼吸は徐々にやわらかく規則的になり、むしろ軽く、浅くなります。
ときにはほとんど(呼吸が)止まったような状態になることもあります。
この段階になると、瞑想中に奇妙な体験をすることがあります。
目をつぶっているのに光や幻覚が見えたり妙な音が聞こえたり。
このような超常感覚は精神集中がかなり深いレベルに達したことを示しているにすぎません。
そして、こういった体験は瞑想目的からすると重要ではありません。とりたてて騒ぐことではありません。
依然として気づき、集中の対象は呼吸であり、それ以外はすべて雑念です。
呼吸に意識を置く際には、おなか(下腹部)ではなく鼻孔の下に置きます。
最初は鼻の範囲の三角形と、その下にある上唇(うわくちびる)までを集中する範囲とします。
この範囲の中であればどこでもいいのでそこで呼吸を感じ、集中していきます。
だんだんと慣れてきたら範囲(三角形の)をせばめていって最終的には鼻の孔(あな)周辺に絞ります。
このように意識を置く範囲を狭くすることでより集中しやすく、集中力を高めます。
呼吸を感じているとき、数を数えたり息を「吐く、吸う」とか、「出る、入る」といった言葉は使わないようにします。
呼吸のたびに言葉を唱えているといつしか言葉だけがひとり歩きしてしまうからです。(これはヴィパッサナー瞑想におけるラベリングも同様です)
呼吸に対する言葉がマントラとなってしまわないよう(マントラを対象とした瞑想とは区別して)
ただ呼吸だけに意識を置くようにします。
呼吸だけ、息の出入りだけ、それだけを意識、感じます。
いかがでしょうか?
これなら一日一回、15分くらいなら取り組めそうな気がしませんか?
最初のうちは5分でもいいです。
ようするに、
- 鼻とその下の上唇までの範囲で呼吸を感じる
- 上記の部分に常に意識を置き、集中を維持する
- 呼吸をコントロール(意識的に)しない
- 慣れてきたら意識する部分を鼻の孔(あな)にせばめていく
以上です。
この瞑想法はゴエンカ氏の瞑想合宿センターにおいて10日間の瞑想合宿の際、最初の三日半くらいひたすらとりくむ、ヴィパッサナー瞑想に取り組む前の前段階の準備、瞑想法になります。
ヴィパッサナー瞑想は「観」の瞑想法でしたね。 (サマタ瞑想は「止」の瞑想法)
サマタ瞑想だけでも日々実践をコツコツと続ければ、充分に瞑想から得られる効果等は感じられます。