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“お芝居をしないと、この社会では異邦人として扱われるほかない”

まだ来ていないのに、もう過ぎたことなのに

瞑想するとどうなるんでしょう?

どんな人に瞑想は役に立つのでしょう?

卑近な例で恐縮ですが
わたしの経験からひとつ紹介します。

フリーランスとして独立をした頃
最初の1年間くらいのことです。

クライアントや案件を確保したうえでの
計画的なことではなかったので
(単純に雇われから脱したかった)

すぐに収入、売上を
どうたてようかという壁にぶつかりました。

単純に「それは無計画すぎる」のですが、
まぁ、当時はいろいろと事情がありまして。

毎朝、今月は大丈夫だろうか、
やっていけるだろうか、ということを考え、
それに思い悩む不安からはじまってました。

また、やっぱり無謀だったのだろうか、
辞めるべきじゃなかったのか、という後悔も。

そんな心の状態では生活も仕事も
(奇跡的にかろうじて食べていけるくらいは舞い込んできてましたが)

出来ないので、それらの不安、後悔を
なんとか心の奥のほうに押し込んで
そしてようやっと一日がはじまってました。

押し込んだといっても
それは依然としてあるわけで

四六時中チクチクと心が(体も)
汚染されていくわけです。

まだ来てないのに
(月末の経理処理)

もう過ぎたことなのに
(辞める前には戻れない)

瞑想を習慣とすることで
上記の二点が意識にあがるようになりました。

それまではただ漠然と不安、後悔というものに
圧迫されていましたが

瞑想を一日のはじまりにするようになってから
その原因(不安、後悔)が観えるようになり

観えるようになったことで
対象化できるようになりました。

対象化できれば、
それをどうにかする、
解決するための取り組みが具体的にみえてきます。

仕事がないなら営業をする。

営業の仕方がわからなければ調べる
知人をあたってみる等。

お金に困っているのなら
工面する方法を調べる。

会社を辞めて後悔しているなら
また会社勤めにもどる等。

対象化できれば
とるべき具体的な行動が導かれます。

たったそれだけのことでした。

そして、それに気づくのに
瞑想はとても有効でした。

ベトナム出身の禅僧で
ティク・ナット・ハンという方(故人)がいますが、

まさに彼のいう

瞑想とは起きていることをハッキリ観ること

でした。

観えていないから
実体(課題、問題)もみえてこない。

みえないから恐れる。

わたしのこの体験は
ほんとに初期(瞑想にとりくみはじめた)のもので
恥ずかしい内容ですが

そのぶん身近な例として伝わるんじゃないでしょうか?

とっかかり(瞑想、その実践)は
100人いたら100通りですが(状況、受け皿によって)

こんなふうに最初は身近なところからはじめ、
だんだんと「大人の階段」を登っていくこともあります。

(瞑想を続けていく中でも階段、
ステージのようなものがあります。
「観る」だけでは意味はありません)

ちなみに、この体験からの気づきの後
自分からの営業活動は一切せずに
奇跡的に仕事が入り続け
(必要になると入ってくる)

そこそこやっていけました。
(大ブレイクといったものではなく、あくまでそこそこでしたが)

面白いもので

自分から出す(必要な出費)ことを厭わずに
貯め込むような姿勢をとらなければ

少なくとも必要なぶんは必要なだけ
(プラスちょっとくらい)
入ってくるものです。

フリーランスになったときにしていた業務は
自分のゴールと関係なく、重要性も低かったので
売上はそこそこでしたが

自分が本当にやりたいことであれば
きっともっとうまく運んだのでしょう。

他にも死者との対話から
存命中にできなかったことへの後悔や
修復できなかった関係性の浄化なんかも体験としてはありますが

それはまたの機会に。

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