「読めた気」になっているだけじゃないの?〜これからの「正義」の話しをしよう
哲学は苦手です。
(単純に理解するだけのIQが足りないだけ)
なので、
これもうんうんと格闘しながら
読んだのだけれど、
読めたのかと問われれば、
「否(いな)」なのです。
しかし、
相当売れた(読まれた?)らしい。
帯には
熱く、生きた哲学がここにある。 日本中が熱狂した国民的ベストセラー。
とあります
ほほぉ。
ならば、
それだけの人々がいるのなら
(「読んだ」ではなく「読めた」人々が)、
なぜこの初春からはじまった例の騒動、
そこからの愚かでグロテスクな光景がいまだ繰り広げられつづけているのか。
本書を「読めた」という
(熱狂したくらいだから)
くらいの知性がある人々が、
それくらいたくさんいるのなら、
なぜこの無意味で無目的な
「密を避けること」や、
自粛の強要(自らに課していることもふくめ)、
マスク(最近続々と現れる新種のマスクはもはや本来の役割とは別のよう)の光景が当たり前の日常になっているのか。
なぜそれをしている
(させられている)のかを
自分の頭をつかって考えず、
ただ唯々諾々(いいだくだく)と
「それ」に従い、
自分だけでなく
自分が大切にしている(とくにこれからの子どもたち)者たちにまでそれを強いているのか。
本書に熱狂するだけの
知性ある人たちがそれだけいて、
なぜこんな醜悪、
グロテスクな「未来」にたどり着いてしまったのか。
たまに下界におりて、
街を徘徊したり、電車にのってみると、
周囲の人たちはほとんどが
トポス(依って立つ場所)を持たない(放棄した)奴隷以下の屍鬼(zombie)に見えるんだよ、オールドスポート。
『FACTFULNESS』と同じく、 字面(じづら)をながめただけ(読んだつもり)で「読めた」気になっているだけじゃないの?。