瞑想と坐禅は違うんですか?
瞑想と坐禅は違うんですか?
どう違うんですか?
なんてことをたまに聞かれます。
瞑想と違い、坐禅の体験はなく不勉強なのでスバリな回答はしませんが、わたしで答えられる範囲で。
ざっくりいうと、禅における瞑想じゃないかと思います。
ただ、瞑想とちがって(仏教では禅定といいますね。瞑想は明治に入ってMeditationが訳されたものだとか)目は閉じず、半眼で行うのが一般的なようです。
瞑想も必ずしも目を閉じませんが。
あと、形にもこだわるようです。
結跏趺坐や半跏趺坐ですね。
いきなり結跏趺坐が出来る人は少ないので、その座法がとれるように身体開発も深めている坐禅の指導者(お坊さんとか)もいるようです。(ヨガとかアレクサンダー・テクニークとかロルフィング等など)
坐っている(坐禅している)様子を「坐相」(ざそう)というそうで(手相みたいな)ちゃんとできている人は坐相が違うそうです。(どう違うのかはわたしにはわかりません)
あとは、一番の違いは「とにかくただ坐る」ということのようです。
そこに見返り、結果を求めない。
精神集中とか無になるとか。
そういうことを求めない。
ただ坐る。
道元禅師(正法眼蔵を著した)の「只管打坐(しかんたざ)」ってやつですね。
いわゆる瞑想においてもそうする(ただ瞑想する)ことはあるので、わたしとしてはあまり違いとは感じないですが、坐禅している人(お坊さんとか)のお話を聞くとそこにとても注意を払っているようです。
ちなみに、坐禅にもおおまかに二種類あるようで、ただ坐る只管打坐とは別に「習禅」というものもあるそうです。集中や無念無想の境地に至るための修行として。
これはわたしの一方的な印象、解釈かもしれませんが、なんか坐禅の人(っていう言い方も変ですが)は瞑想よりも坐禅のほうが高尚なものとしているような気がします。
最近読んだ本(坐禅を指導しているお坊さんが書いた)でも、けっして瞑想を非難するとか坐禅のほうが優れているとかいうつもりじゃないけれどと断りつつも、なんかちょっとスノッブ(鼻が高い?高慢?)な印象でした。
どっちでもいいんじゃないかと思いますが。
純粋にただ坐る(座らなくても)瞑想もあるし、逆に雑念にまみれて考えまくる瞑想もあるし、集中力を養ったり精神を落ち着けるための瞑想もあるしで。
神秘体験を楽しむ(楽しむぶんにはいいと思います。それが真理とか勘違いしなければ)のもいいし、アイデアだしやゴールを探す「目的志向」の瞑想だって。
けっきょく、やっぱりどっちでもいいじゃないかと思います。
100人いたら100通り。
瞑想(実践)も、そこに求めるものも、そこから得られるものも。
深めるということに注目すれば、そこに坐禅も瞑想も違いはないのではないかなぁ。
まぁ、間違ってたらどこかでだれかが叩いてくれるでしょう。