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“お芝居をしないと、この社会では異邦人として扱われるほかない”

死者と対話する瞑想

瞑想をするといろいろな感覚、体験に遭うかもしれません。

よくいわれるリラックスとか、集中力を養うとか、生産性があがるとか、創造性が高まるとか、うんぬん。

ま、それらはそれらでそうなんでしょう。

最近はいろいろな測定装置(fMRIとか)で科学的な面からエヴィデンス(証拠)もとれて、客観的なデータでその効果、効能が明らかになっているようです。

それはそれとして。

そうした客観的なこれだという効果とはべつに、主観的な価値をそこに見出すのもいいと思うんです。

主観的であっても(客観的な証拠が観測されなくても)その体験は本人にとっては現実なのだから。

そんな感じで今回はわたしのふわっとした主観的な瞑想体験を紹介します。

母が急逝してから6年くらい経ちます。

亡くなる1年前くらいまで、ずっと関係は悪くて。

ほんとにひどい息子で、ひどいときには「早く死ねばいい」くらいに思ってました。

もちろん、そうなるにはそうなる理由、原因があったんですけどね。

そんなひどい息子でしたが、とある修行がきっかけで最後の一年はとてもよい関係になっていました。

相変わらず会いにいくこともなく、月に一度か二度の電話(10分もないくらい)だけでしたが、それでもお互い感謝と労い(ねぎらい)の言葉をかけ、思いやることができた貴重な一年でした。

そんなこともあってか、次兄が亡くなったときのように長いあいだ悪夢に苦しむこともなく「あぁ、すんなり成仏したんんだなぁ」と思ってました。

そして亡くなってから一年ほど過ぎたころ、知人から母に献花するお花をいただきました。(奇しくも母とおなじ名前だったりして)

そのお花を供えた夜、夢をみました。

母がでてきたんですね。

やっぱり女性だからでしょうか。

お花は好きなのかな。

嬉しかったんでしょう。

夢ってあたりまえだけど不思議ですね。

夢にでてきた母はずいぶんと若返っていて、スリムにもなっていて、そしてとても美しかったです。

通常の意識(覚醒状態)であれば、そんなことはすぐに「違う」と気づきますが、そこは夢。(明晰夢は別ですけどね)

幸せなことになんの疑問も感じず、じつに自然にコミュニケーションをとることができました。

でも、母がいる部屋との間にふすま戸があり、それがいくら開けても、何枚あけても次の戸がでてきます。

なんでー!!

とイライラしながら数十枚、その戸を開けて、ようやく母のいる部屋に入ると、母は病床にいました。

いまでも鮮明に思い出せますが、そこで生前はできなかった(というか意図的にしなかった)介抱のまねごとをしました。

介抱といっても乱れた髪をまとめてあげたり、お腹をさすってあげたり。そのていどのことです。

切ない感覚が蘇ってきますが、とても満ち足りた幸せな時間でした。

お盆の時期には夢のなかで、こうした故人との再会をすることがあります。

もちろん、いわゆる「霊」とかではなく、自分の記憶が作り出している幻想、作話なのですが、それでも当人には現実です。

これまで兄や知人、お世話になった方と夢のなかで出会ったことを思い出します。

そして、そのどれもがただ再会したというのではなく、生前にあったわだかまりのようなものを溶かす機会でした。

ただの夢、夢で死者と再会したというものではなく。

ある意味「浄化」のような。

こういった夢は、ふだん見る夢とは違っていてわたしの心をとても穏やかにさすってくれるようなところがあります。

ここから瞑想にひきよせるのは強引かもしれませんが、そこをわたしが決めるのは自由でしょう。

客観にはほど遠い、わたしの主観のなかにしかないものであっても。

たかが夢じゃないかと言われれば、たしかにそうなんだけど

瞑想を日々実践し、その質が変化、深まることでこうした夢にも影響があらわれること。

科学的な面からの分析はそうした人たちに任せて、わたしはこっちのほうから深めて、伝えています。