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“お芝居をしないと、この社会では異邦人として扱われるほかない”

悟りに意味はない〜ヴィパッサナー瞑想合宿

瞑想合宿で有名なものに「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想合宿」というのがあります。

世界規模で多くの国々にその瞑想のための施設があります。

日本では京都と千葉に。

数年前、京都(ダンマパダという施設)に行きました。(この写真はもちろん10日間を終えてから)

10日間、誰とも口をきかず、目も合わせてはいけません。

朝4時から夜の9時まで、ひたすら瞑想します。

初日に携帯電話や本、筆記用具等の瞑想に不要なものを提出させられます。

合宿がはじまると食堂や共用部にある張り紙、時計も撤去され、ほんとに「瞑想のみ」に向き合うことになります。

もちろん、インターネットや電話も使えません。

時計は持っていてもいいのですが、わたしは持っていないので時間の流れは食事の合図等で鳴らされる鐘の音で知ります。

1〜2日であぁ、時間って幻想なんだなってことがわかります。

そして、すぐに「しまった、来るんじゃなかった」と後悔もするかも。

実際、たまに逃亡する人もいるみたいですね。(逃亡といっても荷物を預けているので、お願いして帰らせてもらうのですが)

運動もしてはいけないので、とにかく瞑想、瞑想、瞑想です。

1周回るのに3分くらいかかる広場があって、ここをただ歩くくらいは許されますが、その光景は囚人のようです。

たしかに囚人だったかもしれません。(誰しもなにかに囚われ、固執しているという意味でも)

参加者は数名ごとに部屋を割り当てられるのですが、わたしのいた部屋はいびき、寝言が激しい人が3人くらいいました。

面白いもので、瞑想合宿がはじまって最初の数日は寝言、いびきが激しくなっていきました。

ひどいときは寝言同士でケンカになってたり。(実際のケンカではなく、お互い好き勝手に罵詈雑言を交わしてるだけ、もちろん会話にはなってません)

それが日にちが経つにつれ、だんだんとおさまっていくんです。

まるで瞑想を深めていくことで、最初はたまっていたよくないものが湧き上がってきて、それが浄化されていくような。

思い込みや執着にとらわれていた囚人が、そこから解放されていくような。

広場をゾンビのようにゆらゆらと歩く光景が囚人のようにみえたのは、比喩ではなかったかもしれません。

いろんな思い、意図を持って参加する人がいます。(外国の方も)

そのなかには、いわゆる「悟り」を求める人もいるかもしれません。

でも、悟り自体には意味はなく。

そこに至る文脈(過程、道筋)においてする、経験や体験にこそ意味があります。(『サードドア』で主人公のアレックス・バナヤンが旅の終わりに気づくように)

悟りがゴール、目的だとして。

それが叶ったら。

悟ったら。

その先に何が見えるのか。

悟ったときにどんな世界を見たいと願うのか。

悟るということをゴール(目的でもいいです)にすると小乗です。

小さい乗り物です。

自分しか乗れない乗り物です。

そこに「それが叶ったらどんな世界が見え、なぜそれを求めるのか」を大切にするといいと思います。

それなら大きな乗り物(大乗)になるかもしれません。

悟りに意味はない。

そこにどう至るのかに意味がある。

ゴールにも意味はない。

そこに至るまでに何を体験し、経験するかに意味がある。

結果、叶うということだと思います。

それでも「悟りたい」という欲があるのはいいと思います。

ないよりは。

食欲や肉欲といったレベルの欲を超えた、本物の「欲望」を瞑想を通じて見つけてください。

まずは小さい乗り物、自分だけでいいと思います。

天国はつまらないということに気がつくまでは。