ショウジンブログ on Hatena

“お芝居をしないと、この社会では異邦人として扱われるほかない”

瞑想をする場所、時間は決めたほうがいい?

月に数回は警察官による
職務質問を受けるワタクシですが
あなたはそんなことはないですか?
(昨日も)

ま、それはさておき。

瞑想の解説等でよく言われているのが
「同じ場所、決まった時間にやるのがよい」というものです。

最近も「なるべく決まった時間、場所でやったほうがいいとききました」と質問されました。

回答としては
「いつでもいいです」です。

瞑想は習慣化することで
効果がでますから
(脳神経細胞の可塑性によって)

それ(習慣化)を邪魔するくらいなら
むしろ時間や場所の制約は設けなくていいと思います。

もちろん、決めてできる人はそれで。

そもそも、なぜ時間や場所を
決めたほうがいいのかを考えてみることです。

これはひとことで言ってしまえば
トリガー(引き金)になるということだと思います。

時間や場所を決めて行うことで
その時間、空間で瞑想をはじめることが
トリガー(瞑想に入ることの引き金)として機能するということです。

瞑想をつづけていくことで
瞑想体験の記憶(アンカー=錨)が生まれます。

それを想起(思い起こす、思い出す)する
引き金(アンカー)として
「決めた時間と空間」がおすすめですよということです。 (たぶん)

その決めた時間と空間で瞑想をはじめることで
これまで深めてきた瞑想の状態に入りやすくなります。

毎回水面の上から「さぁ、潜るぞ」とはじめるよりも
一度体験した(深く潜った)深度からはじめるほうが
より深く潜れます。
(毎回そうはならなくとも、実践、積み重ねることで)

毎回水面上からだと
いつまでたっても潜る深さに大差はないかもしれませんから。

前回たどりついた深さから始める。

その深さの記憶(アンカー)を
トリガー(引き金)をきっかけに呼び起こす。

その意味での

「決まった時間、場所でやるのがいい」

ということでしょう。

このポイントの意図を理解できれば
逆にその制約にこだわる必要がないことも理解できます。

時間や場所以外もトリガーにできるわけですから。

たとえば瞑想をはじめる合図(トリガー)として
瞑想の前後にみけんにあるアジュナチャクラを指先で触ってみる。

瞑想をはじめたら
鼻腔(鼻)を通る空気の感触に意識を向ける。

瞑想をはじめるときに
手のひらにある労宮(ろうきゅう)というツボを押す等。

こうしたことをトリガーにすれば
時間や場所に関係なく

瞑想体験の記憶(アンカー)を
トリガーと結びつけることができます。

あとは瞑想を終えるとき
瞑想によって深まった変性意識状態
(ふだんよりも「頭の中」にリアリティを感じている状態)から、またもとに戻ってこないようにすること。

せっかく深まったのだから
その深さにむしろとどまって
普段の行動がとれるように心がけます。
(どのみちある程度は戻ってきてしまうので、それをわざわざ自発的にするのはもったいないです)

深い変性意識状態は
酩酊状態(酔っ払った状態)ともいえるので
そんなぽわーっとした状態では危険じゃないかと
思われるかもしれませんが、慣れです。
(あのプラトンも『国家』で言ってます)

よき瞑想ライフを。

瞑想でショートスリーパーになれますか?

深い瞑想を15分すると
1〜2時間の睡眠に匹敵(ひってき)するなんてこともいわれます。

時間数はともかく
瞑想が質のいい睡眠の役割を果たすということのようです。

ということは、瞑想を習慣化していれば
ショートスリーパー(プロレスの技でなく、
あ、それはチョークスリーパー)になれるのでしょうか?

科学的な検証結果をみると
そのような効果はあるのでしょう。

実際、仕事場なんかで合間に瞑想をすることで
瞑想後のパフォーマンスがあがることは体感できますし。

精神的にもリフレッシュ、
リラックスして(緊張緩和やものごとの整理)ということで効果はあると思います。

ですが、睡眠は睡眠で
ちゃんと別に時間を確保してとったほうがよいです。

また、瞑想してると寝てしまう
なんてこともよく聞きますが、

それは睡眠不足、疲れているので
瞑想より先に十分な睡眠時間をとりましょう。
(瞑想はその次に)

睡眠の重要性について、わたしの経験から。

以前、一年くらいのあいだ
1日3時間の睡眠で過ごしていたことがあります。
(90分を二度にわけて)

当時、手に職をつけようと思って(その頃していたWeb/ITには嫌気がさしていたので)飲食の経験があれば、どこでもなんとかやっていけるんじゃないかという、今にして思えば実に浅はかな考えで。

時給が安いのでひとつだけではやっていけず
2〜3の店をかけもちして働きました。

カフェ、イタリアン、フレンチ、パン屋などなど。

始発から終電まで。

ということで、必然的に睡眠時間を削ることになりました。(月に一度の休みの日には爆眠しますが、もちろん「寝だめ」なんてことはできません)

芸能人や小説家で
有名なショートスリーパー
少なくないですが
(さんまさんとか、京極さん)

果たして1日3時間の睡眠で
(せめてまとめてとれればまだしも)
やっていけるのでしょうか?

答えは

否(いな)。
(少なくとも私の経験では)

慢性的に寝不足なので
歩いていても気を抜くと寝ます。
(転びます)

仕込み(料理等の)をしていて
包丁を使っていても寝ます。
(危ないです)

終電を待っていて
座るとすぐに寝落ちするので
ホームで立っていても寝ます。

ホームで寝ると線路に落ちてしまうので
寝ないように自分の顔を殴ったりつねったりして耐えます。

よくそんな生活を一年も続けたなぁと思いますが
もうこれ以上はやめたほうがいいという事件がありました。

シェフに「そこのとって」と言われ
はいと差し出したのが、、栓抜きだったのです。

当然シェフはきょとんとして止まります。

わたしも「?」となって止まります。

数秒後、やっと自分が持っているものが
鍵ではなく栓抜きであることに気がついて

「あぁ、これはもうだめだな」と思ってそんな生活に見切りをつけました。

もうほとんど本能と反応でしか動いてなかった状態です。

逆にいうと、本能と反応だけでも(思考なしでも)けっこういろんなことが(それもヘヴィに)できるもんだなぁと感心しました。(他人事のように)

©高森朝雄ちばてつや講談社

極限を見るのは大事ですが、ほどほどに。

おかげで唯一あった結婚のチャンスも逃し(いやいや、そこまで開示しなくていいから)そんな生活をやめたあとは幽霊のように暮らしてました。(記憶がほとんどないですね)

そんなわけで、
瞑想を睡眠の代わりと考えず
睡眠は睡眠。瞑想は瞑想でやりましょう。

眠くなってしまうような
リラックスに入る瞑想行為もありますが
基本的にちゃんとした瞑想をするには体力が必要です。
(だから体操としてのヨガ、ハタ・ヨーガがありますね)

本気の瞑想をすると
むしろ疲れるものです。
(運動の疲れとはまた別の)

そんな本気の瞑想をしたら
そのあとはしっかり寝て休みましょう。

もちろん、リラックスやリフレッシュのための瞑想も有効です。

ただ、瞑想が睡眠の代わりになるというような捉え方はしないほうがどちらにも(瞑想にも睡眠にも)いいでしょう。

まだ来ていないのに、もう過ぎたことなのに

瞑想するとどうなるんでしょう?

どんな人に瞑想は役に立つのでしょう?

卑近な例で恐縮ですが
わたしの経験からひとつ紹介します。

フリーランスとして独立をした頃
最初の1年間くらいのことです。

クライアントや案件を確保したうえでの
計画的なことではなかったので
(単純に雇われから脱したかった)

すぐに収入、売上を
どうたてようかという壁にぶつかりました。

単純に「それは無計画すぎる」のですが、
まぁ、当時はいろいろと事情がありまして。

毎朝、今月は大丈夫だろうか、
やっていけるだろうか、ということを考え、
それに思い悩む不安からはじまってました。

また、やっぱり無謀だったのだろうか、
辞めるべきじゃなかったのか、という後悔も。

そんな心の状態では生活も仕事も
(奇跡的にかろうじて食べていけるくらいは舞い込んできてましたが)

出来ないので、それらの不安、後悔を
なんとか心の奥のほうに押し込んで
そしてようやっと一日がはじまってました。

押し込んだといっても
それは依然としてあるわけで

四六時中チクチクと心が(体も)
汚染されていくわけです。

まだ来てないのに
(月末の経理処理)

もう過ぎたことなのに
(辞める前には戻れない)

瞑想を習慣とすることで
上記の二点が意識にあがるようになりました。

それまではただ漠然と不安、後悔というものに
圧迫されていましたが

瞑想を一日のはじまりにするようになってから
その原因(不安、後悔)が観えるようになり

観えるようになったことで
対象化できるようになりました。

対象化できれば、
それをどうにかする、
解決するための取り組みが具体的にみえてきます。

仕事がないなら営業をする。

営業の仕方がわからなければ調べる
知人をあたってみる等。

お金に困っているのなら
工面する方法を調べる。

会社を辞めて後悔しているなら
また会社勤めにもどる等。

対象化できれば
とるべき具体的な行動が導かれます。

たったそれだけのことでした。

そして、それに気づくのに
瞑想はとても有効でした。

ベトナム出身の禅僧で
ティク・ナット・ハンという方(故人)がいますが、

まさに彼のいう

瞑想とは起きていることをハッキリ観ること

でした。

観えていないから
実体(課題、問題)もみえてこない。

みえないから恐れる。

わたしのこの体験は
ほんとに初期(瞑想にとりくみはじめた)のもので
恥ずかしい内容ですが

そのぶん身近な例として伝わるんじゃないでしょうか?

とっかかり(瞑想、その実践)は
100人いたら100通りですが(状況、受け皿によって)

こんなふうに最初は身近なところからはじめ、
だんだんと「大人の階段」を登っていくこともあります。

(瞑想を続けていく中でも階段、
ステージのようなものがあります。
「観る」だけでは意味はありません)

ちなみに、この体験からの気づきの後
自分からの営業活動は一切せずに
奇跡的に仕事が入り続け
(必要になると入ってくる)

そこそこやっていけました。
(大ブレイクといったものではなく、あくまでそこそこでしたが)

面白いもので

自分から出す(必要な出費)ことを厭わずに
貯め込むような姿勢をとらなければ

少なくとも必要なぶんは必要なだけ
(プラスちょっとくらい)
入ってくるものです。

フリーランスになったときにしていた業務は
自分のゴールと関係なく、重要性も低かったので
売上はそこそこでしたが

自分が本当にやりたいことであれば
きっともっとうまく運んだのでしょう。

他にも死者との対話から
存命中にできなかったことへの後悔や
修復できなかった関係性の浄化なんかも体験としてはありますが

それはまたの機会に。

showjinx.hatenablog.com

悦びを求めることは悪いこと?

瞑想、メディテーション

「無になること」

だと言う人がいますが
そうなんでしょうか。

無念無想(むねんむそう)
なんて言葉もあります。

そう感じることがあっても
それは「そう感じただけ」であって
無になることを目指すのが瞑想なんでしょうか。

無になることを求めるのではなく。

答えを見つけること。

答えを探しにいくこと。

答えといっても 「正解」という意味ではなく。

求めるものを探す。

求めるものを見つける。

釈尊(お釈迦様)も
そうしたものを探し続けて見つけた(悟った)のではないでしょうか。

そして、その答えが(求めるものが)
見つかったときの快感を求めてする。

瞑想(仏教では「禅定」=ぜんじょう、
といったりしますね)を

宗教的な、高尚(こうしょう)で
禁欲的なものだと理解している人には
「快感」を求めるなんて受け入れ難いかもしれません。

でも、快感、悦び(よろこび)を求めることは悪いことでしょうか?

釈尊をはじめ
周囲からみると「禁欲的」にみえる
修行のようなことをしている人たちも

まわりがどうみているかは別にして
本人はよろこびを求めて(快楽を、快感を)瞑想をしているのではないでしょうか。

快楽をただセックスなどの肉欲や食欲に求めるのではなく
高い段階(精神性を)で求めることが瞑想なんじゃないかと思います。

そしてそこで(瞑想で)見つけた何かが
自分ひとりの快楽にとどまらず
他者や社会に役立つものであったら
さらに悦び、喜び、歓びになりますね。

小乗(小さい乗り物)が大乗(大きな乗り物)に。

自帰依自灯明〜自分の中に毒を持て

例の狂想曲(現在進行形)で
明らかになったことはいろいろあるけれど

自分にとって最たるものは

頭いい(よさそうな)人も
専門家(とされる、また自称も含めて)も
SNSとかで影響力ある人も
国家や地方自治体等の権威権力を行使できる人たちも

まったくたいしたことなくて
見事に化けの皮がはがれたってことです。

ただ、そのように持ち上げていたのは
こちら側の無知、思考放棄が前提でもあるので
そこを突いて痛烈に往復ビンタしてくれたということもまた、恩恵ではあります。

彼らのすることは
ほとんどが害悪だけれど
彼らには彼らの正義、倫理がある。
(誰にも、そこには肯定的な意図がある。
たとえ他者からはネガティブに見える、感じられるものであっても)

それが出来ない(放棄している)人たちにまみれ
異邦人のようにみられ(扱われ)ているとしても
そこには絶対の選択の自由がある。

主体性やトポス(依って立つ場)なく
ただ、なびいていいことなんてひとつもない。

それ(トポスを持たず、自分の頭で考えることなく)が
楽だとする人々のほうがはるかに多いのは、そこかしこにいくらでも見えるのだけれど。

自分の生を生きると決めたのであれば

自帰依自灯明

自分の中に毒をもて (quoted from Taro Okamoto)

無になることが瞑想なのか?

瞑想(メディテーション)を

ただ静かに座り
心を静めてリラックスしていく

ように思っている人は多いです。
(只管打坐なんて言葉もありますし)

間違ってはいませんが
それがすべて、本質ということではないでしょう。

どの視点でみるか、
実践するかで

「どのようにするのが瞑想か」

というのは変わってきます。

集中して(あるいは非集中して)

心を無にして

あるがままを観て(観察して)

執着を手放していく。

これもひとつの瞑想のあり方でしょうし、やり方でしょう。

ですが、繰り返しになりますが、これが全てではありません。

このようにしていれば瞑想ということではなく、
これができていれば瞑想できているということでもありません。

瞑想の結果、なににつなげていくのか。

行動していくのか。

そこまでを含めて瞑想です。

瞑想そのものには意味はありません。
(すくなくとも一般社会で生活する多くの人にとっては)

とはいえ、いっきにそこまで駆け上がるのは容易ではありません。

なので、まずは「静かに座り、心を静め、自分を、世界を観察する」からはじめるのは有効です。

私は瞑想は「徹底的に観る、感じる、思考する」ことだと思っていますが、それをするにもまずは真っ白になる体験が必要です。

瞑想にも大人の階段があるのです。


www.youtube.com

「徹底的に観る、感じる、思考する」には、世界は(そして自分は)あまりにも雑音に満ちあふれているのです。

まずはそこを切り離すことからはじめる。

自分がその雑音そのものではないことを知る。

手放すことからはじめよう〜ゆっくり吐くこと

瞑想や呼吸、ヨーガなどにおいて
呼気(吐く息)が重要(吸うよりも)とはよく言われていることです。

でも、なぜ吸うより吐くことが大事なんでしょう?
(ヨーガ行者の成瀬先生も『ゆっくり吐くこと』という本を出されてますね)

「深呼吸しましょう」というと
まず息を吸うことからはじめる人は少なくありません。
(あなたはどうでしょう?)

「だって、吸ってからでないと吐けないでしょ?」

というのがその理由だったりします。

本当にそうなんでしょうか?

吸わないと吐けないんでしょうか?

なぜ呼気(息を吐くこと)が大事なのか。

また、それによる恩恵について、
以下の書籍が役に立つと思います。
(呼吸、呼吸法については他にもたくさん出てますが)

ひとつはアスレティックトレーナーという立場、経験から。

もうひとつは医師としての経験、
研究等から書かれたもので、
手っ取り早く(というと乱暴に聞こえるけれど)

「なぜ吸うより吐くことが大事なのか」の理由を
知識として得たい人が併せ読むといいと思います。

わたしはそちらの専門家ではないので
詳しいことは紹介の書籍にゆずりますが、

ただ漠然と「吐くのが大事らしい」とやるよりも(呼吸を)、
その理由を脳やホルモン、呼吸筋群(横隔膜や肋間筋等の)
といったところに注目して、医学的、科学的な説明をふまえて
理解してやるほうが取り組みやすく、得るものも多いと思います。

どちらもおすすめの呼吸法
(吐くことを鍛えることに注目した)
を紹介しているのもいいですね。
すぐに生活に取り入れられて。

なるほど〜と思ったところはたくさんありますが、
とくに『呼吸力こそが〜』にあった

“ 大切なのはその場その場に応じた
適切な呼吸ができることであって、
唯一絶対の理想の呼吸法というものは存在しない ”

ということろが印象に残りました。

なにごともそれだけで成り立つ、
存在する唯一絶対の真理はないということを
「呼吸」においても確認できた気がします。
(言葉に意味はない、状況、文脈に意味がある、にも通じるかと思います)

ハタヨガのアーサナ
いくつか組み合わせた「キャット&カウ」ストレッチは
その点(呼気)ちゃんとフォローしてるなぁとも思ったり。
(このアーサナに近い呼吸法の紹介もされています)

長くヨガの修練を続けている友人が言ってましたが、
瞑想よりも呼吸法のほうが習得、
深めるのは難しい気がするというのもわかる気がします。
(どの視点から捉えるかによります、もちろん)