キャラクターではなく、プレイヤーであることを思い出す
欲望を知る。
欠けている部分を埋めようとする。
それでも決して埋まることはないのだけれど、それでも埋めようとする。
その欠けた部分を明らかにする。
それ(欠けた部分)に気づかぬように蓋(ふた)をしていた抑圧を知る。
それに瞑想は有効です。(やり方次第で)
単一の自己、アイデンティティなんてないってことを最近よく思います。
自分で自分だと思っている(思い込んでいる)存在は諸々の要素による複合的なものの結果(これもまた縁起)にすぎず、それを仮に自分、自己としているにすぎない。
便宜上。(そうしないといろいろ厄介なので、社会で生きていくにあたって)
そんなもんです自己なんて。
それがあると思いたい。
そんな感覚を維持しようとする「物語る(記憶する)自己」(ダニエル・カーネマンいうところの)の作話による幻想。
だからこそ、そんな幻想(インド哲学では「マーヤ」なんていいますね)を遊び尽くす。(これもインド哲学では「リーラ」なんていいますね)
ゲーム盤上にいるキャラクターではなく、自分はそれ(コマ、キャラクター)を動かす「プレイヤー」なのだと自覚して。
そんな「自覚」にも、瞑想は役に立ちます。(やり方次第で)