無になることが瞑想なのか?
瞑想(メディテーション)を
ただ静かに座り
心を静めてリラックスしていく
ように思っている人は多いです。
(只管打坐なんて言葉もありますし)
間違ってはいませんが
それがすべて、本質ということではないでしょう。
どの視点でみるか、
実践するかで
「どのようにするのが瞑想か」
というのは変わってきます。
集中して(あるいは非集中して)
心を無にして
あるがままを観て(観察して)
執着を手放していく。
これもひとつの瞑想のあり方でしょうし、やり方でしょう。
ですが、繰り返しになりますが、これが全てではありません。
このようにしていれば瞑想ということではなく、
これができていれば瞑想できているということでもありません。
瞑想の結果、なににつなげていくのか。
行動していくのか。
そこまでを含めて瞑想です。
瞑想そのものには意味はありません。
(すくなくとも一般社会で生活する多くの人にとっては)
とはいえ、いっきにそこまで駆け上がるのは容易ではありません。
なので、まずは「静かに座り、心を静め、自分を、世界を観察する」からはじめるのは有効です。
私は瞑想は「徹底的に観る、感じる、思考する」ことだと思っていますが、それをするにもまずは真っ白になる体験が必要です。
瞑想にも大人の階段があるのです。
「徹底的に観る、感じる、思考する」には、世界は(そして自分は)あまりにも雑音に満ちあふれているのです。
まずはそこを切り離すことからはじめる。
自分がその雑音そのものではないことを知る。