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“お芝居をしないと、この社会では異邦人として扱われるほかない”

瞑想の定義とは?

瞑想とは?

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瞑想の定義。

そうしたものがあるとすれば
それはひとつではないでしょう。

抽象度の階層性を考えれば
多様性があることは当たり前。
(ひとりいち宇宙という意味でも)

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ケースや目的によって(習熟度なども)だったり

定義をするひとが得ている知識や理解度に応じてもそれ(定義)がちがうのは自然なことです。

それでもユニークな(一意の=たったひとつの)定義を求めるひとたちはいます。

それはそれとして(おおよそでもいいから方向を示すものが知りたいとか)わけて考えるのが近道だったり。

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ということで、話はもどって
瞑想の定義について。

ベトナム出身の故ティク・ナット・ハンさん(禅僧・平和・人権運動家)によると

起きていることをはっきりと観る
毎日自分のしていることすべてに気づく

観る」とは仏教の瞑想(禅定)でいえば「止観」。

・止めて(サマタ瞑想)
・観る(ヴィパッサナー瞑想

瞑想法でいえばこのふたつ。

止観の瞑想によって
「はっきりと観る」
「すべてに気づく」

最近日本でも知られるようになってきたマインドフルネスな状態に到ることも、この「止めて観る」ことによってもたらされるらしいです。

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しかし、出家修行者でないかぎり
この定義が目的になってしまっては本末転倒。

出家修行者であれば
「止めて観る」ことで
ものごとをありのままに観て

物事の実相を会得することで
覚り(悟り)や解脱に到ること

そこへの到達のために日々精進することに意味がある。(かもしれない)

わたしも含め多くの人たちにとっては
むしろその先(マインドフルな状態になってからの)にゴール(目的、目標)を見つけ、そのための行動につなげるための「乗り物」や「梯子」として瞑想(法)を活用することこそが本来の瞑想になるのではないか。(プラグマティズム

出家修行者ではない、在家で、娑婆(しゃば)で生活していく中では、いかに他者や社会に機能していくか(役割を果たし、役にたっていく)が、我々にとってのある意味修行ではないか。(利行、同事)

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「利行」「同事」は
仏教において説かれている理想的な行為。

利行は他者のために行為すること。

同事はみんなで強力してよい社会を作ること。(「仏教」において、ということでわかるように、もちろん釈迦が言ったことではない)

もっとくだくと、
ようするにゴール(人生で達成したい夢、目標)を設定し、それにむかって邁進(まいしん)することで他者、社会に機能し、役立って共に成長していく。

そのゴール設定、ゴールを見つける(探す)ための乗り物のひとつが瞑想という行為ではないのか。(なので、もちろん瞑想以外でもいいわけで、瞑想は手法、ツールのひとつ)

仏教の大乗や小乗(上座部)が成仏にいたるための乗り物であるように

瞑想の実践も乗り物であり、乗り物であればそれは目的地へ向かうためのものであるはず。(乗るだけ、ながめて愛でて楽しむというのもありだけれど)

瞑想によって「起きていることをはっきりと観る」状態(乗り物にのった)から、ゴールを見つけるスタート地点に立つとすれば、少なくとも瞑想の定義は

瞑想とは、ゴールにかける梯子

もしくは

ゴールを見つけるための乗り物

そして、この定義であれば梯子や乗り物自体にはなんの意味もない。それはただの道具、ツールのひとつにすぎないのだから。

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普及してきてるんだか、ただの一過性のブーム(それもしょぼい)なんだかよくわからないけれど、マインドフルネスそれ自体(手段)が目的となっている印象があります。

瞑想して、マインドフルネスな状態になって「あー、スッキリした、気持ちよかった、癒された」で終わりじゃなく(入り口としては悪くはないけれど、よくもない)、その状態から何に向かって行動していくのか。

それによってどんな世界(ゴール達成に向けて行動していく中で)が見えるのか。見たいのか。

座る(坐法をとる)とか
目を瞑るとか
無になるとかはどうでもいい。

その本質はどこにある?

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